最終話の視聴率は6パーセント台ながらも、非常に美しい映像や演出をはじめとするドラマ自体の話題性によって、昨今では珍しい作品と言えるものとなったドラマ【モンテ・クリスト伯】。
使われた音楽や主題歌はもちろん、SNSでの話題作りと、ドラマの内容が絶妙にマッチして、各方面で好評価となっているようです。
ここではドラマ【モンテ・クリスト伯】というドラマから受けた印象を「愛」という観点からお伝えしています。
「愛は勝たなければいけない」ということを確かめるために復讐を選んだ男の無益な行動
結局のところ主人公である柴門暖が、最終的に落ち着いた場所を見ると、やはり復讐はどこまでも無益であり、モンテ・クリスト・真海という存在はどこまでも悲しい人と映りました。
これはまた同時に、楽しいとはなんなんか、幸せとはなんなのかをこの3ヶ月の間頻繁に考えることにも繋がりました。
最終話の結末を見て、ディーン・フジオカ演じる真海が復讐をしていた目的は、結局のところすみれがかつて暖に誓った
「最後に愛は勝つんだよ。どこにいても暖を必ず連れ戻すから」
という言葉が、嘘であってはいけなかったということのように思います。
すみれがかつて暖だった男と「結婚を誓う」ことは、真海の中では「最後に愛は勝つ」ということが実現された瞬間で、さらに、すみれの「愛」が「真海を暖として連れ戻した」ということを意味していました。
すみれが愛の対象とする幸男と明日花というものを捨てて、真海に愛を向けること。
それが真海のただ一つの目的だった。
最終話を見た限りは、真海の復讐の目的は「それだけ」のように見えました。
しかし、真海は第8話の時点で幸男を薬によって毒殺しようとしており、やはり真海の目的の中には幸男たちを殺すこと、命を奪うことがあったようです。すみれから幸男を奪い、その上で愛を誓わせるつもりだったのかもしれません。
しかし結果的には幸男も神楽も入間も死ぬことはありませんでした。三人とも逮捕され、ほとんどの地位を奪い取られ、入間に至っては精神崩壊となりほとんど再起不能状態。当初から言っていた「殺すなんて簡単だ、全てを奪い取るのが目的だ」との言葉通り、三人とも全てのものを奪われ、社会的に「死んだ」ことから、真海の復讐は成功ということだったのでしょう。
しかし、真海がすみれに「全てを捨てて結婚すれば復讐をやめる」と言ったのはやはり第9話あたりで急遽思いついたことのように思いました。
それまでは一貫して復讐する男たちの全てを奪うために、人を殺すのではなく、周囲の人間が抱える弱みなどを利用して、彼らが幸せだと思っているものを徐々に徐々に奪い取って行きました。
折れた樹が朽ちていくように、または、嘘が白日のもとに晒され真実が導くことを拒まないように、真海はその当然向かうべき自然の法則をただ「正しい場所に置いた」だけだったように思います。もともと隠されていた悪を順序よく白日のもとに晒して行ったとも言えます。
そのような意味で(強引ではありますが)真海は神様から世の裁きを任せられたイエス・キリストのようでもありました。
そのような観点で見ると、第7話で真海が眺めていた西洋絵画の意味が非常に深いものとなります。
◯ドラマ【モンテ・クリスト伯】第7話のディーン真海が眺めていた西洋絵画のタイトルや作者。シンドラーのリストテーマ曲
真海が眺めていた絵画のタイトルは「イエスの割礼」というもので、それは「神に選ばれた人」ということを暗示していました。イエスはいうまでもなく、当時「悪」が強力にはびこる世の中へ神様から遣わされて、真実の言葉を宣べ伝え、多くの悪霊を裁きに合わせて行きました。(正確には神様の想いをはっきりと悟ることのできた人物です)
真実を伝えることが、同時に悪を裁くということに繋がる事から、真海がターゲットの三人の情報を徹底的に調べ上げ、彼らが抱える「悪」や「嘘」という隠されているものを、全て明らかにして、真実を明らかにした。
これが悪を隠していたものにとっては必然的に「裁き」となったのでした。
入間が最後に訴えたように一人ひとりにとっては正しい事だったのかもしれませんが、神様の視点から見たら紛れも無い「悪」だったのです。
神様が「善」を裁くはずがありません。
しかしその裁きはやはり、復讐という「悪」を行っていた真海にも下ることになるのでした。
聖書でも裁きを下すのは神様の領分であり、人間が行うことでは無いと書かれています。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 」(レビ記19・18)
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ローマ書12・19)[出典]
さらに聖書では「悪に勝つためには、善を行うことで悪に打ち勝ち、復讐という憎しみの心を持って裁きを下してはいけない。」と言われています。
このようにドラマ【モンテ・クリスト伯】は、とても忠実に自然界の法則を描き出している作品とも言えます。
幸男たちを貶める復讐が目的ではなく、ただすみれがかつて誓った言葉を取り戻すために行動していたら、暖(真海)は真に「神の人」と言えたことでしょう。しかし、真海はやはり「悪」を抱えてしまい、本人も言っていたように「許しなど求めていない」と、裁きを受けるつもりでいました。
人間は誓ったり約束したりすることもありますが、このドラマのように、一寸先に何が起こるかは人間にとっては本当にわからないものです。すみれが真海を初めて見て彼が「柴門暖」だと気付いた時に、幸男を捨ててでも真海の元に戻っていたら・・・
真海にとって「愛が負ける」ようなことがあってはいけなかった。
すみれの誓ったことが「嘘」であってはいけなかった。
全てを見終わって振り返ることで、真海が復讐をする中にも、かつての暖という男が持っていた「愛」がその奥底に見つけ出すことができました。このリメイク作が好評価となる理由には、このようにわずかながらも真実が残されていたことがあるのでは無いでしょうか。
ディーンフジオカの現時点での最高のはまり役であり、非常に見応えのあ
る作品としてオススメしたいものです。
聖書の知識があればより深く楽しめる作品でもあります。
ドラマ【モンテ・クリスト伯】登場人物の原作との違いと類似点一覧
- 南条すみれ(メルセデス)と南条幸男(フェルナン・モンデゴ)の子供は娘・明日花ではなく、息子・アルベール。
- 山賊に誘拐された明日花(アルベール)を救ったのが真海(モンテクリスト伯)
- 真海は「ヴァンパ」の悪事を秘密にしてやったことで関係を持っていた。
- 原作で「ヴァンパ」は組織ではなく、のちに山賊となる羊飼いルイジ・ヴァンパ。
- 「ククメット」もまた組織ではなく、ヴァンパからその地位を奪われる山賊の頭の名前。
- 幸男の職業は漁師→フランス陸軍将軍→貴族議員(フェルナン・ド・モルセール伯爵)。
- 原作での南条明日花は出口文矢(フランツ・デピネー)と友人の関係。ドラマ版では一切関係はない。
- 原作で江田愛梨(エデ)の身分は大きな領土を持っていた首領の娘(ほぼ大統領並みの支配者)。
- 原作で真海に命を救われるのは瑛理奈(エロイーズ)ではなく、その息子の瑛人(エドワール)。
- 原作で神楽清(ダングラール)は漁業会社の会計士から、銀行家になる。
- 原作の神楽清と留美(エルミーヌ)には娘・ユージェニーがいて、明日花(アルベール)の許嫁。
- ドラマの柴門暖の母・恵は原作では父親(ルイ・ダンテス)
- 安堂に誤って殺害された寺角類(ガスパール・カドルッス)の原作での職業は宝石商。
- 守尾信一朗(マクシミリアン・モレル)は騎兵隊軍人で明日花(アルベール)の命を救ってくれた友人。
- 原作で幸男(フェルナン)は愛梨/エデルヴァ(エデ)の父を裏切り、処刑の手引きをする。のちに、そのことを裁判の席でエデに証言される。